Ordinary

日常生活の些細なことに幸せの種を見つけて楽しんでいる平凡なオヤジの視点

タグ:曾野綾子

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毎週楽しみにしているPodcastの一つ、「学問ノススメ」SP。
今週のゲストは曾野綾子氏
20代の頃からず〜〜と愛読している大好きな作家の一人。
先週分のまだ聴いていないPodcastがたくさんあったのだが、
氏の放送分を最優先で聴いた。

1931年生まれ、ということは御年79歳。
とてもそんな年齢とは思えない張りのある声。
優しさの中に、凛とした哲学を穏やかに語る。

私が氏の小説・エッセイを読み耽っていた30年前から
氏の視座は全くブレることはない。すなわち、
「人間は天使でもなく、悪魔でもない。」
「過剰な期待も過度の絶望も不要。中庸こそ人間の特徴」
というもの。

今回の放送で、記憶に残っている言葉は・・・
「バカは困る」
「日本ほど格差のない国はない」
「人間は継続した時間の中で作られていく」
「プロは運・鈍・根」
「貧乏の定義は今晩食べるものがないこと」
「書物と生の人間、両方を観察することが大切。
書物の世界だけに生きると観念論だけに偏り、
狭量に陥りやすい」
「All or Nothingはダメ。ホドホドの中で人間は生きている」
「世界120ヶ国以上旅した経験から断言すると、
他人は泥棒であると考えるのが世界の現実」
「不幸を望む必要はないが、人間を見る目を養うためには
確実に不幸は必要」
「与えられた運命を抗わずに受け入れられるか余生は楽しみたい」
「殺人はしない。自殺もしない。
それさえしなければ、あとはホドホドでいい」
「与える立場になったほうがいい。
貰っている間は人は決して幸せにはなれないから」

文字にしてしまうと、非常にキツイ感じに聞こえるが、(;´▽`A``
氏の口から発せられるときにはそんな厳しさを感じない。
氏は評論家のような上から目線で決して発言しない。
いつも穏やかで謙虚。私の理想像。

それ以外にも、インドのタクシードライバーの逸話や
日本の刑務所を見学した途上国の人々の感嘆話など
興味深い話多数。1時間全く飽きることなく聴けた。

君子に三変あり、と論語にある。
これを望めば儼然(げんぜん)たり、
これに即(つ)けば温(おん)なり、
其の言を聴けば厲(はげ)し。

遠くから眺めているとちょっとイカツイ。
もう少し近くによってみると、その人柄はあたたかい。
しかしさらに近づいて、その言葉を聞くとその言葉は厳しい。

曾野氏に男子の尊称である「君子」は失礼だが、
曾野氏は「君子」の名に相応しい。
私の人間としての目標点と言っていい。

これまで聴いた当番組の中で個人的には最高の内容。
超オススメ。必聴!!


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金髪で耳ピアス・鼻ピアス3こも4こもしている学生が
非常に礼儀正しく、タッチタイピングバリバリ
こなしたりする一方で、清純派と思われたアイドル歌手が
親族皆暴力団関係者で麻薬常用者だったりする今日この頃、
人間の奥深さを再認識されてもらっています。(笑)

オタク系の政治家としては、麻生総理が有名だが、
こちらの方の意外な側面を知る面白い動画を見つけたのでご紹介。
経済財政・金融担当大臣の与謝野馨氏。
何と自宅にある20台以上のPCがすべて自作だいう。



「Win95はCD-ROMを認識しなくて、
まずFDDからCD-ROMのドライバを入れてやらないと、
CDを読みにいってくれなかった。苦労したよ。」
の一節には、思わず膝を打つ。

そう、そう。そうだった!!
そんな昔のことはすっかり忘れていた。
確かにそうだった。
非常に苦労した思い出が蘇る。
Win98になって、標準でCD-ROMドライバが入るようになった時、
これでインストールが楽になると大喜びした。

そんなことはともかく。。。。(^_^;)

私も一時期、自作に凝って、何台か組み立てたが、
それでも仕事も含めて10台程度。
与謝野氏のご年齢(1938年生)を考えると、
さすがタダモノではない。(笑)

人は見かけで判断してはいけない。
つくづく思う。
曾野綾子氏の名言を思い出す。
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人間は途方もなく多様である。
偉大な芸術家が性格破綻者だったり、
立派な教育者が性的に尋常でなかったりするケースは
いくらでもある。

人間は本来、多かれ少なかれ、
そのようにアンバランスなものなのである。
その多様性を見抜く者だけが人間の弱点に不当に失望することなく、
小さな弱点によってその人の美点を見ないということもなく、
鮮やかに人間を分析してその複雑な才能が信じがたいような
微妙な形で他者により係り合って世の中を動かしている妙味を
味わうことができる。
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絶望からの出発―私の実感的教育論

人間って面白い!!

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大学時代からずっと愛読し続けてきた曾野綾子。
一人さんや正観さんの世界とはちょっと趣が異なる。
それは彼女が「鬱」を経験し、それを乗り越えてきた、
経験があるからなのかもしれない。
無条件に、また無尽蔵に温かいわけでなく、
その根底にヒヤリとした厳しさを感じることは確か。

眼光鋭い曾野の冷静な視点は、表面的な「優しさ」
とは一味違う、奥深い人生の陰翳を醸し出してくれる。

以下の8つのテーマに沿って、
膨大な曽野の作品から数々の名言を引用する。

各章から無理やり一つだけ選択してみる。
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<眠れないとき>
「まあまあ」は本質的に優しい言葉だ。
労りもあるし励ましもある。
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<人間関係に悩むとき>
好きになれない人はどうしてもできてしまうだろうが、
その人をいらないと思うことは高慢なのである。
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<心が疲れたとき>
たとえば、偉大な人やことがらに感動できるのも一つの才能だが、
くだらないことを楽しめるのも、やはり才能だと思うことにしよう、
と決めていたのである。
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<自信を失ったとき>
自分の中に、動物みたいな部分と、
優しい気高い部分と、両方が確実にあると思えれば、
人間は大きく間違えないでいられる。
だけど、たいていの人が、自分はどっちかだと
決めてかかるからおかしくなるんだ。
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<健康と病気を考えるとき>
体や心に病気を持っている人は、
しばしば周囲の人の中から聖性を引き出します。
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<生と死を考えるとき>
不備を不備でなくそうとすると別の不備が出る。
一生というのは不備を生きることなんだ。
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<不幸と幸福を考えるとき>
幸福というものは客観的な状況ではなくて、
幸福を受け取る者の能力にかかっている。
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<本当に強くなりたいとき>
ただ会いたいと思うときに会え、
話したいと思うときに時間を割いてくれ、
病気の時には深く心に思い、
そして男と女の関係を越えて、
礼儀を守りつつ心の傷も話し合える人を
友人として持つのが本当の人脈だろう。
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1ページに1フレーズずつ記されていて、
非常に読みやすい。
どの言葉を引用するかは、編集者の意図なのだろうが
昔自分が原作を読んだときにノートにメモした言葉と
同じモノを見つけるとなぜか嬉しくなる。(^_^)

全部で200ページにも満たないが、
曽野哲学のエッセンスは見事に描いている。

彼女の言葉に久しぶりに触れて、背筋が伸びた気分。(^^)V

2009年度ブックレビュー#2

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昆虫で鳴くのはオスばかり。
イイ声で鳴いて、メスを引きつけるのがその目的。

カエルもまた鳴くのはオスだけ。
その声を聴いて、メスが自分にピッタリのオスを探す。
ただそれはイイ声で鳴くオスを探しているわけでは
ないそうだ。

声の高さでオスの体重を推理する。
低い音のオスは重く、高い音は軽い。
そしてメスは自分の体重の70%のオスを探すのだという。
なぜ70%なのか?

メスカエルはオスを自分の背中に乗せて
池の中を50メートル程泳ぎ、水中に生えている植物の茎に
産卵する。それには7時間くらいかかる。
その間ずっとオスを背負っていないといけない。

だから、あまり大きなオスを選ぶとメスのほうが
もたない。(^_^;)
もちろん、大きくて強いオスのほうがよいが
あまりにも大きすぎるオスを選ぶのは危険。
その妥協点が、自分の体重の70%のオスという
選択なのだそうだ。

先日、新聞を読んでいたら、偶然こんなコラムがあって
とても興味深く読んだ。

「ほどほどの知恵」は人間である我々にも
何事かを教えてくれる。

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人間は誰一人として理想を生きてはいない。
理想を持ちながら、現実は妥協で生きている。
我々の生きる現実、対面する真実は、理想にはほど遠く、
善悪の区別にも歯切れが悪く、どっちつかずである。
しかし、むしろその曖昧さと混沌に耐えることが、
人間の誠実さと強さというものなのである。
それにあることの醜さを自覚している限り
人間は決して本質的には醜くならない。

曾野綾子著・「ほどほど」の効用―安心録
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善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか―救心録

大学生の頃から愛読してきた曾野綾子の小説やエッセイ
から粋なフレーズだけを抜粋した著作。
いわばエッセンス。
半分くらいの作品はすでに読んでおり覚えている
箇所もあったが、忘れているフレーズも多い。

スピリチュアル系の本は大好きだが、
甘い理想を打ち壊すような、現実主義的な思想も
精神のバランスをとる意味で定期的に読まなくては
いけないと、個人的には思っている。

おしるこに隠し味として「塩」を入れると
甘さが一層引き立つように、私の中では曽野の作品群は
スピリチュアルな世界の味わいを否定するどころか
むしろ一層それを際立たせてくれる。

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男でも女でも、かっとなる人はまず弱い人である。
かっとなった時には人間は攻撃的になり、
あたかも強者の如く見える。
しかしそれはヒステリー以外の何ものでもない。(p.57)
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親は、時には休むことも子どもに教えた方がいい。
人間すべて両方できないと困る。
いいことしかしない人など退屈で誰もつきあってくれない。
大悪はいけないが、
小さな悪もできないようでは、面白くない。(p.79)
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私たちは現実のただ中に常に生きているのである。
そこには限りなく善と悪との中間に位置する人生が
展開するだけである。
故にこの瞬間に、悪の姿が見えても、
私たちは絶望する必要もなく、
次の瞬間に善の輝きが見えても安心することはできない。
その葛藤の狭間に、私たちは育ち生きるのである。(p.126)
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私たちは「人は皆善人」と教えられた幼稚で危険な
教育を受けている。「人は皆悪人」と教えられても
やはり片寄った貧しい教育を受けている。
「人はさまざま」という教育を受けたときだけ
安心していられる、と私は思っている。(p.137)
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凧が空高く飛べるのは
だれかが糸を
引っぱっているから
でも凧は
その糸さえなければ
もっと自由に
空を飛べると
思っている
その糸がなければ
地上に
落ちてしまうのも
知らずに
・・・
凧の糸は、失敗、苦労、不運、貧乏、家庭に対する扶養義務、
自分や家族の病気に対する精神的支援、理解されないこと、
誤解されること、などのことだ。
それらは自由を縛るようには見えるが、
その重い糸に縛られた時に、初めて凧は強風の青空に昂然と
舞うのである。(p.158)
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う〜〜ん、何とも深い曽野の洞察。
こういう懐の深さを大人の風情というのだろう。
スピリチュアルな世界もおもしろいが
こういうエッセイも味わい深くて好きだな〜。(^_^)

善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか―救心録

一人の出家が道を歩いていると、
鶏を鍋にして食べようとして、
生きた鶏の首を絞め殺そうとする連中に出くわした。

その坊さんは、そんな惨いことお止めなさい
と言って、幾ばくかのお金を払い、
鶏をもらい受け、逃がしてやった。

夜、その坊さんが寝ていると枕元に
昼間助けた鶏が出てきた。
お礼を言いに来たのか、と思いきや・・・

「あんた、何てことをしてくれたんだ!
私は来世は人間に生まれ変われるはずだったのに
あんたが余計なことをしてくれたおかげで
(死ぬはずのところで死ねなかったので)
もう一度来世、鶏をやらなくてはいけなくなった
じゃないか。恨めしや〜〜」
と言って消えていった、という。

「小さな親切、大きなお世話」というやつ。(^◇^;)

人間の浅はかな了見では「正義」と思っても
もっと上の次元から見たとき、それはとんでもない
見当外れのことをしていることもある、
という怖いお話。

では、こんな時はどうすればよいのか。
無論、助けたいのなら助ければよい。
ただ、それで自分が「正義」をおこなったとか
絶対「善」なる行動だ、などとおこがましいことは
考えないほうがいい、と言うことだろう。
謙虚さをどこかに担保しておきたい。

単なる自分の「趣味」。
そうした方が自分が「楽しい」から。
その程度の動機が人間の分としてふさわしい。

わが人生の師・曽野綾子はこう表現する。
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親切と思われることを申し出ることが
感謝される場合と迷惑と受けとられることは
半々の確率でしょう

『残照に立つ』P.74
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けだし慧眼であろう。

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